私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視點から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

ヒトが起こす大絶滅 根拠なき「世界は無限」

このところの思いがけない天候の不順には、恐ろしい気持ちになる。世界各地で毎年更新される、その地の最高気溫。毎年繰り返される大雨と大洪水。半月前にも大雨で九州などに被害があった。たたきつけるようなざあざあ降りの中、また、くらくらするほどの太陽光線の中、近い將來、これまでのようにきれいな服を著て、きれいな靴を履いて歩くことはできなくなるのかもしれないと感じた。

気候変動が起こっているのは確実だ。これは、きれいな服や靴などのぜいたくの話ではない。海水面の上昇も含め、今後、本當に人が住めなくなる地域や、食料生産のできなくなる地域も増えるのだろう。

たくさんの種が絶滅し、生物多様性が激減している。それは、46億年の地球史上、何度か繰り返されてきた大絶滅と比較しても、さらに急激で大規模な絶滅だという。たとえば、25100萬年前に起こったペルム紀後期の大量絶滅は、地球史上最大の絶滅といわれ、すべての生物の80%以上が絶滅したと推定されている。これまでの大量絶滅はみな、地球の地殻などの変動による変化だったが、今回は、私たちヒトという生物が引き起こしている。

しかも、これまでの大量絶滅は、地質學的に長い時間をかけて生じてきた。しかし、私たちが引き起こしている大量絶滅は、ほんの數百年単位でのことなのだ。自然が、こんな速度の絶滅にどう対応できるのか、おそらくできないのではないかと思う。

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1972年に出されたローマ?クラプによるリポート「成長の限界」は、あまりにも有名だ。資源の使い過ぎと人口増加がこのままなら、100年以內にこんなことは続けられなくなると予測した。私が大學に入學した年である。しかし、當時の議論としては、石油が枯渇する、公害問題が深刻だ、といった論點が中心で、二酸化炭素排出や生物多様性の問題は取り上げられていなかったように思う。

大學1年のときにそのような報道に出合い、その後、生態學を勉強する中で、ロジスティック曲線について學んだ。生物の個體數は、少ないうちは資源があるのでどんどん増えるが、増えるにつれ資源が枯渇し、種內競爭も激化する。數の増加は鈍り、やがて環境収容力いっぱいのところで一定となるというモデルである。

この個體群動態モデルは単純で、さまざまな前提を置いた上でのものだ。実際の生物個體群では、こんなにきれいなS字狀にはならない。それでも、ここには重要な示唆が込められている。それは、環境は無限ではないということだ。

ところが、経済學ではどうも、環境は無限だということが大前提となっているらしい。少なくとも資本主義においては。

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私は経済學が専門ではないので、詳しいことは知らないのだが、資本主義、市場経済、新自由主義、イノベーションなどなどの議論を聞いている限り、どこまでも成長し続けることが目標とされている。

それはおかしいのではないかと思うのだが、人間は長い間、世界は無限だと考えても差し支えない狀況にあったのだろう。まずは、文明世界が、他の非文明世界を「発見」していく。そこに植民地を作り、人間が移民する。この生息地の拡張は、ほぼ全地球に人間が移住するまで続いた。

次は、さまざまなイノベーションである。作物の畫期的増収を図れる肥料や殺蟲剤を開発する、新たな工ネルギー源を開発する、抗生物質を作る、などなどにより、人間が住める限界である環境収容力自體を引き上げてきた。

しかし、人間が開発してきた技術には、その技術のめざす効果以外の別の面で悪影響がある。それが、公害問題などというような、ある特定の場所での、ある特定の問題である限りそれも技術によって解決された。現代の問題は、もっと大きな負の遺産である。それは、人間の活動が地球システムのあり方全體を狂わせているということなのだ。もうこれ以上、世界を無限と考週えてもよい根拠はない。

生態學という學問の英語の名稱はエコロジーである。経済學の英語名稱はエコノミクス。

この両者に入るエコという言葉は、ギリシャ語の「家」という単語から來ている。両者ともに、家の中に住むことにかかわる學問なのだ。もう少し、両者の対話が必要ではないか。

2021年8月29日)

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